気づきの本
この世に聞いたあの世の仕組み
「この世の仕組みをあの世の仕組み」から、感じたことや気づいたことをまとめていきます。
この世の学校
この世は、あの世に住む子ども(魂)の人生という名前の学校。
この世に、おぎゃーっと誕生したときが人生学校の入学式です。
お父さんとお母さんに、あたたかく迎えられ、ピカピカの0年生から誰もがスタートして、人それぞれのカリキュラムをこなしながら人それぞれが卒業をしていく学校。
この世の子ども達は幼稚園や保育園へ通い6年間の小学校3年間の中学・高校、そして、人により、4年間の大学と学びを続けていきます。
ではなぜ、子ども達は学びを続けるのでしょうか?
それは、いろいろな事を知り・学び・理解して、いろいろな人と関わりながら、ときには楽しみながら、ときには苦しみながら、自分の世界観を広げていくためです。
この世的には大学までが学びの場ですが、あの世的にはいまのいのちをまっとうするまでが学びの場です。
そう考えると、僕らもまだまだ学びの場にいるのです。
ではなんのために、僕は学び続けるのでしょうか?
入学式で忘れること
この世は、あの世に住む子ども(魂)の人生という名前の学校。
実は今世にこの世の学校へ入学することは、はじめてのことではなく、なんどもなんども卒業と入学を繰り返している。
輪廻転生僕らは真理に気づくために、なんどもなんども、この世の学校でいろいろなことを体験して経験を積んでいく。
この世の学校の入学式、おぎゃーっとうまれるとき、いのちがかたちになるときに、1つの儀式が行われる。
それが、過去の記憶を忘れること。
なんども繰り返してきたこの世の学校の記憶を全て忘れて、心機一転、また入学式を迎える。
では、なぜわざわぜ、今までの記憶を消してから、この世に学校に入学をするのだろうか?
それは今世に集中をするため。
すべての記憶を忘れることで、いままでと違ったことを体験できる。
生前の記憶がないことで、つねにいまここに生きようとすること。
いまの前世療法やスピリチュアルの視点では、集合無意識にアプローチすることで、きっと自分の前世とか来世とか、いろいろと見ることが出来るのだと思う。
だけど大事なことは、前世がどうであったのか?来世がどうあろうか?
ということではなく、いまここをどう生きていたいのか?といういまを生きる視点を忘れないこと。
なぜならば、いまに集中するために、今世へ入学をするときにわざわざ前世の記憶を消してきたのだから。
この世の学校の授業
みなさんが子どもの頃、先生からどんな授業を受けましたか?国語・算数・理科・社会・図工・体育など様々な授業を受けてきましたよね。
では、なぜ子どもの頃に、様々な授業を受ける必要があったのでしょうか?
そう、より学びより成長をするため。
この世の学校にもカリキュラムがある。
それは、出来事・出会いなど。
この世の学校では、学校に入学するときに、おぎゃーっとかたちになったとき、実は自分で学びたいことのテーマを自分で選んでいる。
例えば今世のテーマは体育みたいに。
でも、入学式の時に、そのテーマの記憶も意識的には忘れてしまうが、心の奥底ではそのテーマが残り続けている。
僕らは生きることで自分のテーマの立証をしようとしている。
テーマはひとりひとりが違うもの。
だから、人にはそれぞれ個性があり、これだけの人がいるのに、ひとつとして同じ人生は存在しない。
ここまで書いておきながら、僕自身が自分のテーマが何か?と問われれば、やっぱり、そんなのはわからない。
でもね、もし自分にテーマがあり、何かの出来事に何かの意味があるのだと思えれば、それが例え、辛く苦しい出来事だとしても、逃げることなく自分で対処しようと思える。
自分が子どもの時に、小学校の授業に意味があるかどうかなんかわからなかった。
でも、大人になってから、小学校の授業の意味は理解できる。
きっと、この世の学校のカリキュラム(出会い・出来事)の意味も、いまはわからないけれど、いつかわかるときがくるのだと思います。
この世の学校の校則
自分が中学生・高校生のときは、色々と細かな校則があったな~と思います。
でも、この世の学校には、1つだけしか校則がありません。
その校則とは、すべて自由であること。
職場のファームで、お客様に収穫体験をしていただくとき、子どもと大人に違いがあります。
例えば、ごぼうの収穫体験。
大人に「さあ、どうぞ自由に収穫してください。
」と穴を掘るシャベルを渡すと、必ず「どうやってほればいいのですか?」と方法を聞いてくる。
子どもに「さあ、自由に収穫してごらん」とシャベルを渡すと、子どもは、「よし」という感じで、何も言わずに、ごぼうの周りを掘り始める。
ごぼうの収穫をするのだから、単純に周りを掘ればいいことなのに、大人は自由にすればと言われると不自由になり、子どもは自由にすればと言われればもっと自由になる。
大人は、ごぼうを掘るときに、「うまくやらなければ」「失敗しないように」という考えが先行して入ってくるので、自由に掘ればいいと言われると、不自由になってしまう。
でも、子どもは、とりあえず掘ってみて、掘りながら考えていく。
途中でごぼうが折れたとしても、自分達が食べるのだから、折れても折れなくても味は一緒。
そんなことも理解してると思う。
この世の学校の校則は、自由なのだから、ごぼうを掘る子ども達のように、大人も時には自由になってみましょう。
この世の学校の卒業
この世の学校の入学式、おぎゃーっとうまれるとき、いのちがかたちになったときから、ひとりひとりの人生ドラマがはじまる。
そして、ひとりひとりのかたちのいのちが尽きるとき、その人生ドラマは終わる。
もし、映画館で何かの映画を見るときに、ストーリーを全て理解していて、”ふ~ん”という感じでみる映画と、まったく予測がつかないストーリーで”ワクワク・ドキドキ”しながら見る映画、どちらの映画を見たいと思いますか?
きっと、みなさんが選択した方が、みなんさん自身の人生ドラマという映画の主人公なのかもしれまん。
この世のいのちが尽きるとき、走馬灯のように人生を振り返ると言われています。
もし、それが事実だとするならば、なぜ、人生を振り返る必要があるのでしょうか?きっと、そこで人生の意味、入学式の時にあえて忘れて何かを思い出すのかもしれません。
映画を見ているときに、エンディングのことばかりを考えていたら、いまのストーリー展開を楽しめません。
人生ドラマも一緒で、自分の人生がどんなエンディングなのかは誰もがわからない。
わからないことを気にしていると、今日を楽しめない。
僕らが映画を楽しむよう。
僕らは自分の人生を楽しめたらいい。
きっといまを楽しめた分だけの、人生の意味も楽しい思いでになるものだから。
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