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苦難なときほど「生きる目的」を持つこと

仕事のストレスからうつ病にかかったり、いきなり会社が倒産したり、突然の自然災害や、新型コロナウイルスに遭遇したりと・・・

苦難に遭遇したとき、先が見えなくなり心は不安と怖さでいっぱいになり、毎日が苦しいと感じるようなる。

しかし、苦難なときほど「生きる目的」を持つことが重要になるとのこと。

ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』をとおして、苦難に遭遇したときの考え方について書いていきます。

目次

ヴィクトール・E・フランクルとは

最初に、ヴィクトール・E・フランクルとはどんな人物だろうか?

1905年、ウィーンに生まれる。ウィーン大学卒業。在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。

第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を戦後間もなく夜と霧に記す。 1955年からウィーン大学教授。

人間が存在することの意味での意思を重視し、心理療法に活かすという実存分析やロゴテラピーと称される独自の理論を展開する。

精神医学を勉強したものが、強制収容所なかで何を感じどう考えたのか?

抑圧から解放までの3段階とは

フランクルは、強制収容所などの苦しい環境に置かれるとき、人間の感情は3段階のプロセスを踏むと語っている。

強制収容所で自分や他の人々を観察してえたおびただしい資料、つまりそこでの体験のすべてをまず整理し、おおまかに分類すると、収容所生活への被収容者の心の反応は3段階に分けられる。

それは、施設に収容される段階、まさに収容生活そのものの段階、そして収容所から出所ないし、解放の段階だ。

うつ病においても同じような感情プロセスを踏むと思う。うつ病に例えながら3段階のプロセスを考える。

第1段階 否定

第1段階の特徴は、収容ショックとでも言おうか。だからこの心理学で言うところのショック作用は、状況によっては実際の収容の前にも起こりうる。

~中略~

精神医学では、いわゆる恩赦妄想という病像が知られている。死刑を宣告されたものが処刑の直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだ、と空想をし始めるのだ。

それと同じで、私たちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで事態はそんなに悪くないだろうと信じた。

いきなりの苦難に遭遇したとき、その苦難を受け入れることができず、物事を楽観的に考えようとする。

うつ病のかかりはじめも、気分が落ち込みはじめているにもかかわらず「まさか、自分がうつ病になるはずがない」と思ったり、気持ちがついていっていないのに、仕事をがむしゃらにしようとしたりするもの。

それは、「自分がうつ病になりつつある」ということを否定したいため。

しかし、いくら頭で頑張っても心はついてこない。否定していることが現実であると認めなくてはならない段階で、急に明るくなったりする。それがやけくそのユーモアだ。

こんな風に私たちがまだ持っていた幻想はひとつ、またひとつとついにえた。そうなると思いもよらない感情が込み上げた。やけくそのユーモアだ。まずは自分自身をひいてはお互いを笑い飛ばそうと躍起になった。

明るく振る舞うことで、ユーモアをいうことで、心を立て直そうとすることがある。しかし、そんな簡単に心は変わらず、第2段階の抑圧へとすすむ。

第2段階 抑圧

収容者はショックの第一段階から第二段階である。感動の消滅段階へと移行した。内面がじわじわと死んでいったのだ。

~中略~

第二段階の主な徴候である感情の消滅は精神にとって必要不可欠な自己保存メカニズムだった。現実はすっかり遮断された。

すべての努力、そしてそれに伴うすべての感情生活はたった1つの課題に集中した。つまり、ただひたすら生命を自らの生命をそして仲間の生命を維持することに。

いくら頑張っても心がついてこないことに絶望し、もう何もできないと思ったとき、第2段階の抑圧フェーズになる。

何かを考えたり、感じたりすることが億劫になり、何かをしようとは思えなくなる。今日1日を過ごすことが精一杯になる。

まったく、先の見えない日々が続いていく。

第3段階 解放

長いうつ状態も、通院や薬、カウンセリングなどを継続することで、抑圧された心は少しずつ解放されていく。しかし、第3段階の解放時期が一番危険。

なぜならば、ジワジワ抑圧されたものが、一気に解放に向かうから。フランクルは第3段階の危険性を下記のとおりに語っている。

強制収容所から解放された収容者はもう精神的なケアを必要としないと考えたら誤りだ。

まず考慮すべきは次の点だ。長いところ、そら恐ろしいほど精神的な抑圧の下にあった人間、つまり強制収容所に抱いた人間は当然のことながら解放された後も、いやむしろまさに突然抑圧から解放されたために、ある種の精神的な危機に脅かされるのだ。

この危険とは、いわば精神的な潜水病に他ならない。精神的な圧迫から急に解放された人間も場合によっては精神の健康を損ねるのだ。

「うつ病から回復した人の人格が変わって、自分勝手になってしまった」という話を複数聞いたことがある。その現象についてフランクルは以下のように語っている。

特に未成熟な人間がてんこの心理学的な段階で、相変わらず権力や暴力といった枠組みに囚われた心的態度を見せることがしばしば観察された。

そういう人々は今や解放されたものとして、今度は自分が力と自由を意のままにとことんためらいもなく行使していいのだと履き違えのだ。

抑圧し我慢してきた分だけ「もう、私は我慢しなくていい」と勘違いをする人がいるが、それはミイラ取りがミイラになっただけ。

苦難に遭遇したときに大事なことは、抑圧フェーズのときに生きる意味を問うことにある。

苦難に耐える3つの方法とは

非人道的な強制収容所のなかで、人間がその苦難に耐えるために、フランクルは自身の体験として以下の3点が必要と伝えている。

愛するものに思いをはせる

収容所に入れられ、何かをして自己実現する道を断たれると言う、思いつく限りで最も悲惨な状況、できるのはただこの耐え難い苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人はうちに秘めた愛する人の眼差しや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。

自分が心から大切にしている人や物、過去の思い出など、想像力を働かせ思い起こすことで、心を満たすことができる。

精神の自由を奪われない

人は強制収容所に人間をぶち込んですべてを奪うことができるが、たった1つ、与えられた環境でいかに振る舞うかという、人間としての最後の自由だけが奪えない。実際にそのような例はだということを証明するには十分だ。

~中略~

つまり、人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在なるかについて、何らかの決断を下せるのだ。

典型的な収容者になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏み留まり、己の尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

かつてドストエフスキーはこういった 「私が恐れるのはただ1つ、私が私の苦悩に値しない人間になることだ。

どんなに苦しい環境であっても、精神の自由だけは奪われないことを知ること。

被害者意識にならず、常に自分の人生の主人公として主体性を持ち続けることで、苦難に流されなくなる。

未来に目的をもつ

強制収容所で破綻した人にはひとつの特徴があった。

それは、未来を、自分の未来をもはや信じることができなかったものは、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに、精神的な拠り所を失い、精神的に自分を見捨てて、身体的にも精神的にも破綻していたのだ。

強制収容所のような過酷の環境のなか、先の見えない苦痛のなかで、未来に目的をもつにはどうすればいいのだろうか?

苦難の中で生きる目的をもつには?

苦難の中で、未来に目的を持つためにフランクルは以下のように語っている。

強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的を持たさなければならなかった。

収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療の試みは従うべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。

「なぜ生きるかを知っているものは、どのように生きることにも耐える」

したがって、収容者には彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、事あるごとに意識させ、現在のありような悲惨などのように、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

まずは、「生きる目的」を意識させ、苦難に対しての精神的な抵抗力をもつこと。その次に「生きる意味」を考えること。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。

私たちが生きることから何かを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが、私たちから何を期待しているから問題なのだ。ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

フランクルの言う「生きる意味」とは、「生きる意味」を探すことではなく自分自身で「生きる意味を見いだすこと」である。

もういいかげん、生きる事の意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

生きることが日々 、そして時々刻々問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。

考え込んだり、言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。

生きるとは、つまり、生きることのとこに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受ける事に他ならない。

苦難に遭遇したとき、「なぜ、自分だけがこんな苦難に遭遇するのだ!」と悲観したくなるが、まずは苦難を受け入れ、次に苦難から自分は何を学び成し遂げられるのか?を主体をもって考えることが責務だと知ること。

具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はその苦しみを責務と、たった1度だけ課される責務としなければならないだろう。

人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに、宇宙にたった1度、そして2つとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

誰もその人から苦しみを取り除くことができない。誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむ事は出来ない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、 2つとない何かを成し遂げるたった1度の可能性はあるのだ。

しかし、実際に苦難に遭遇したとき、受け入れることも、未来を考えることも難しいこと。

そのため、苦しみを受け入れられるために、フランクルは「苦しむことは何かを成し遂げること」と語っている。

苦しむこととは何かをなし遂げる事

苦難に遭遇して目的を失ったとき「生きる価値」を見失ってしまうもの。そのことにフランクルは以下のように語っている。

現実をまるごと無価値なものに貶める事は、収容者の暫定的なありようにはしっくりくるとは言え、ついには節操を失い、堕落することにつながった。なにしろ「目的なんてない」からだ。

このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長を促すことがある、ということを忘れている。収容所生活の外的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受け止めず、これは非本来的な何かなのだと高をくくり、こういう事の前では過去の生活にしがみついて心を飛ばしていたほうが得策だと考えるのだ。

このような人間に成長は望めない。収容者として過ごす時間がもたらす過酷さのもとで高いレベルへと飛躍することは無いのだ。

苦しいからこそ、その苦しみから逃げたり、誰かのせいにしたりして、心を解放したくなる。しかし、それでは現実はなにも変わらない。その苦しみから逃れることができても、また同じようなことで苦しむもの。

なぜならば、人間は苦しむことで、何かに気づき、これからを考え、そして、新しい行動を起こすようになり、その結果、精神的に成長し、何かを成し遂げることができるから。
フランクルは以下のように語っている

苦しむことの意味が明らかになると、あたしたちは収容所生活に横溢して苦しみを抑圧したり、安手のぎこちない楽観によってごまかすことで軽視し、たかをくくることを拒否した。

~中略~

私たちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようと思わなかった。

私たちにとって苦しむ事は何かを成し遂げる事という性格を帯びていた。

きっと、これがフランクル自身が強制収容所の体験の意味から見いだした答えではないだろうか。

まとめ

生きていると、自分の思いどおりにならないこと、思っていなかったことが、苦難として訪れることがある。

苦難に遭遇したとき、感情は3つのプロセスを踏む。

特に第2段階の抑圧フェーズは苦しく、その苦しみから逃れ楽になりたいと思うもの。もちろん、時には苦しみから逃げだし、自分を立て直すことも必要なこと。

しかし、毎回苦しみ逃れていたのでは、成長することも、何かを成し遂げることはできない。

人生は私たちに問いかけている。「その苦しさから、あなたは何に気づき、何を見つけますか?」と。

そして、その苦しさの中から、あなたがあなたとしての答えを見つけたとき、本当の意味で心は解放される。

このときの解放は、喜びに満ちていて、苦しい思いを体験した意味も理解できているので、人格が高まることはあっても、人格が変わることはない。

苦しみの中から、人は精神的に成長していく。

これが、フランクルが強制収容所の体験から見いだした答えなのだと思う。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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